「君を肯定する。」
台風がニュースを賑わせているようだ。常軌を逸したこの台風の軌道は、偉大な存在を感じさせるような自然の脅威に思える。
もし神が本当にいるとしたら、僕たち人間はこの台風で翻弄されているように手のひらの上で踊らされるんだろうなぁ…と思う。神がいるいない、という話はまともに考えたこともなかったが、現代で人間が逆らえない大いなる自然の脅威(台風、雷、地震、津波、噴火など)を見ると「いてもおかしくはないのかなぁ」なんて思ったりする。
先日借りたアドラーの本のうち、二冊ほどを読み終えた。多くの本を読みたいという気持ちと、何かを糧にしたいという気持ちを両立させるためにアドラーという内容の本を複数借りてみた。
狙いとしては重複する内容に関して流し読みが可能で、場所によっては読み飛ばすことも出来ることから多読しやすく知識の確認・追加も同時に行えるんじゃないか?と思った所にある。
実際、重複する部分は多いので「あーね、これね、うん、そうだったね」という気持ち(だいぶ軽いけど)で読めるしジワジワと頭に定着し始めている実感もある。諳んじる程に覚えたとは全く言えないが、自身の実体験になぞらえて「なるほど、なるほどだ〜」と理解はしているつもりだ。狙い通り。
アドラー心理学の内容については各所で語られているのだけど、これは自分がかつて人間関係のことで悩んだ時期に取り組んだ改善策に結構似ていると思った。
大学時代は怠惰を極めた生徒だった僕が、そんな中で一つだけ誇れることがあるとしたら、それは部活動の部長を務めていたことだ。時には100名弱の部員の上に立ち、稚拙ではあったものの運営に尽力していたこともあった。
部長生活は大変だったが、特に悩んだのがヒラ部員とのコミュニケーションだった。部長と部員という肩書きの違いがあまりに上下関係を規定し過ぎたように感じていた僕は、なんとか対等な関係を目指して色々と試行錯誤していた。
その中に「肯定」という試みがあった。
自分で言うのもなんだけど、一応部長に推される以上は部での存在感や実力はあった(らしい)ので、自分の権威を使って部員を評価することから始めてみた。
単に適当に軽く褒めたり、あることないことをヨイショするのは不信感を抱かせ、かえって自分の信頼を失うことになるだろうとは思っていたので、まずは彼らが実際に持っている「良いところ」を見つけて、それを「肯定」することにした。
例えば部員Aくんは、こんな子だった。
・仲間とのコミュニケーションが良好
→本番でも息の合った連携プレイ
・部活動を心から楽しんでいる
→モチベーション維持、増大
・他部員の動きを見て先回りして動く
→部活動の効率的な運営に寄与
などなど。場合によっては短所と捉えられることもあるが、今は置いておく。
一つ一つ見ていけば細かなことと重要なことが混在しているものの、ほぼ全ての部員に関して「イイトコ」を見つけられた。この部分について評価し、イイトコは積極的に伸ばしてもらった。
一方で「ワルイトコ」の存在も否定できない。それは、ある程度彼らに対してハードルを上げていく中で目に付くようになった点であったり、イイトコの裏返しとしてのものだった。要するに求める基準に対しての能力不足であるとか経験不足。
こういうものは能力不足だから、経験不足だから、と叱ってみたり注意するものなのか?と疑問に思っていたこともあって基本的には建設的に、共同で「どうすればいいか?」を考えていくスタンスだった。
もし叱る場合、能力不足だと「お前は下手クソだ!練習しやがれ!」だし、経験不足なら「そんなことも知らないのか!もっと周りを見て技を盗め!自分に置き換えて考えろ!」とか正論と併せて説教かますことになるのかもしれない。
だけど僕はそれをされるとやる気がなくなるので、それよりは冷静に分析して短所を潰していくほうがお互い気持ちよく次の手順に入れると思っていたし、今でもそうだ。
こうした取組みはアドラー心理学の内容に結構似ていたようで、実際に「勇気づけ」などといった言葉で説明がなされている。つまり、僕は知らない内にアドラー心理学の要素を取り入れた部活動運営をしていた…?のかなと思う。
もちろんアドラーとは違う部分や、アドラー心理学を読んで「なるほど、こうしてみれば確かに良かったかもしれない」と感心する部分もあった。アドラーのすべてが正しいと鵜呑みにするつもりはないが、学ぶ点は実に多いと感じている。
氏の本を読み出して、ネットでも少し調べたりしたのだがどうやらアドラー心理学は「自己啓発の源流」と呼ばれているらしい。つまり、僕が今まで読んできた自己啓発系の本のルーツはもしかするとここにあったのかもしれない。
そう考えれば、多くの人がアドラーの名前を知らずにアドラー心理学の内容を実践していたりするのも普通に考えられるし、自分自身がその中の一人だという事実にも納得できる。
自己啓発という大きな糧のルーツとしての存在に触れることになったのは驚きだが、何事についてもそのルーツを探り学ぶことがそれを理解する上で重要だと思っているので、もうすこしアドラーのことを調べていこうと思う。
帰省中。
今は諸事情で実家に帰省している。
帰省中の空いた時間で読んでおきたい本がいくつかある。
一つは論理学、特に野矢茂樹さんの本。
一つはアドラー心理学の本。
前者は友人(二人)との酒の席で出た話題で興味を持った。
友人たちはとても頭が切れるし議論も好きなのでよく語り合っていた。
僕は論理の類は苦手で感覚派だ、と煙たがっていたのだが彼らとの話で興味を持った。
論理の力を持つというのは、つまり人を納得させる力を獲得することなのだし、自分にはいい機会だと思ったので幾らか情報収集している。
後者は名前だけ何となく知っていたものの、内容は全くノータッチだった。
つい先日、地元の図書館で見つけたアドラー心理学を基にした本が胸を打った。
アドラー心理学は対人関係を改善するもので、今の自分にとって一番必要な知識ではないか?!と驚いた。 本の目次を読んでいるだけで、そうか…!と興奮したものだ。
これから自分は就職活動をすることで、社会に自分の価値を肯定させてゆく必要があるのだろうと思っている。そのためには自分がまず自分を肯定してあげたり、自分の思考の芯を据えて納得してゆくという基盤が必要なんだと思う。分からないなりに。
それで、まずは自分が納得する行為は継続し続けるとして、自分が他者にアピールする手段でPRを用いることになるだろうから、ここに説得力を持たせたい。その目的において論理的思考力だとか、対人関係における心理学というのは大きな武器になるのだろうと予想がつく。
帰省は9月後半ごろまで続くが、この期間中になるべく「これだ」という瞬間に出会いたい。
僕と速度。
「速度」が大きく求められるようになった時代になった。そういう気がする。
テクノロジーが何かを可能にすることは、人々を興奮させるロマンだったし、彼らの次なるロマン、希望という欲求となっていったことも言うまでもない。際限がないのだ。
自動車が出来たのもつかの間、鉄道や電車、新幹線、そしてリニアと人々は速度を求めていった。空が飛べるようになった後も同様である。
僕は、速度が上がればその分ゆっくりとお茶をしたり、音楽を聴いたり、趣味に時間を割いたり出来ると思っていた。しかし、人間は今もなお、より早く遠くへ行くことを選択し続けている。いつからか「手段」と「目的」をはき違えてしまった。
「テクノロジーの進歩が僕たちの生活にどのような豊かさを与えてくれたというのか?」
この議論を今するつもりはないが、要するに世の中の潮流は速いということだ。
そして僕にとってその潮流の速度はあまりに速すぎた。
僕は臆病だった。生来のアガリ症に加えて実際の失敗からくるトラウマや常に失敗に怯えることで生じる慢性的なストレスもあって、大学3年からの就活は散々、更には単位不足による2度の留年など、散々な時期を過ごしてきた。
当然「このままでは」と思う。しかし、速度が緩まるわけではないという現実には足がすくむばかりで、気づけば無為に大学生活を過ごしてしまった。今後、もうこんなに自由で創造的な恵まれた時間は今後やってこないだろうと落胆したものだ。
ただ、無為に過ごす日々でも「きっかけ」が全く無いわけではないと気づいた。家に引き籠って何もしない、外に出ないならばきっかけなど掴めないだろうが、他人とコミュニケーションをとる機会や、ネットで情報収集をすることで見えてくるものが幾らかあった。
また、かつて読んできた本の知識や文言を想起させる出来事にも出会った。
これもまた、他者とのコミュニケーションの場においてあったことだった。
「なるほど、あの本で著者が言いたかったこと・感覚はこれなのか。」と納得・実感(これがメチャクチャ重要だと思う)する機会に恵まれたということだ。
ひとつ引用しておきたい言葉がある。
「オレは『納得』したいだけだ!『納得』は全てに優先するぜッ!!でないとオレは『前』へ進めねぇッ!『どこへ』も!『未来』への道も!探す事は出来ねえッ!!」
(『ジョジョの奇妙な冒険』 SBR 第8巻 ジャイロ・ツェペリ の言葉)
個人的な感想だが、とても情熱的であり、人間の生きる力を感じる言葉だ。(ゆえに赤)
この言葉に出会った時に直感的に「ああ、俺もコレだわ」と思った。自分が臆病なのは決断に自信がないからであり、自信がないのはプロセスひとつひとつに確信を持てないまま、最終的な判断を下すとき、僕は言うまでもなくその回答に誰よりも、まず自分が100%納得していないからであると気づいたわけだ。
ただ、世の中の判断すべてが100%納得のゆくものであるべきとは思わない。それはきっと傲慢である。そうならない場合が往々にしてあることも認める必要がある。
(なぜなら、自分と他者によって社会が成り立っているから)
だとしても、僕はこの言葉の力を信じてみたいと思った。自分が納得できるよう行為してみよう、と思ったのだった。
「緩繰返す」というのは、察しやすいだろうが「緩く、繰り返す」ということだ。
世の中の潮流に反して(?)僕の流れるスピード、行動するスピードというのは著しく緩い、つまり遅い。これは否定できない事実なのだが、遅い代わりに自分のできる範囲で「流れてゆく」ことはできる。決して「流される」ことはないのだ。
緩く流れてインプットの下流へ到達したら少し考える。果たして「納得」しているか。
納得していないなら、少し時間をおいてまたインプット流域を「流れる」。
少し間を開けておくことがミソだと思う。その間に日常で「なるほど!」と思う場面が訪れることもよくあるのだ。
今まで読んできた無数の小説も学術書も、自分の中で本来の意味も分からぬまま眠っていたことと思う。そうしたものに繰り返し「再会」し、更なる深い理解を目指したい。
…というわけで、自分なりに学びたいと思ったことに関してのつぶやきのようなブログとなります。それから、趣味のことなど。趣味から学ぶ哲学というか、他人の人生観というのも奥深さがあって面白い気がしています。
内容が内容なので、思考する時間が必要である以上なるべく毎日、最低でも2日に1回~というような頻度では更新が難しそうです。なので気が向いたら書きます。とはいってもよほどのことがなければ週1くらいで何かしらの気づきを書くことになると思います。
早速、稚拙で長々とした文章で恐縮でしたが、最初はこんなもので。