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緩繰返す

僕は、僕らしい生を許されるだろうか?

「僕はただ、生きることに安心したいだけなんだけどなぁ。」

昨日の記事でADHDのことを扱ったんですけどいきなりアクセスがあって驚いています。 今この時も苦しんでおられる方がいるのだな、ということを考えさせられました。

また稚拙な文章なのでお目汚しになっていることも多いかと思います、すみません。

 

 

前回の最後の方で書いていたことについて、もう少し書きたいと思います。

 

僕がADHDとか鬱のような心の病なのかそうでないか、それが僕にとっては問題なのですが、もっと言うと、何かしらの原因があるとしてそれを知って「納得したい」んです。そして、理解して「安心したい」んです。

 

 

この、「安心したい」という気持ちは思えば生きてきて24年間常に考えていた事だなと思います。

 

小学生の頃、図書館で本を読んでいた時に言葉の由来について書かれた児童書がありました。僕はその本が好きでシリーズものだったんですがすべて読んでいて、その中で「杞憂」という言葉に出会いました。

 

杞憂というのは、心配しすぎることだとか余計な心配という意味だと認識していますがこの逸話に、幼心ながらとても共感しまったのです。

 

昔、中国の杞の国の人が「天が落ちたり、大地が崩れたらどうしよう」と有り得ないことを心配して(憂いて)食事もできずにいたという話から生まれた言葉が杞憂なのですが、僕も結構な頻度で「石油が明日尽きたらどうする」とか「地球が人間の住めるところでなくなったらどうする」とかそういう不毛なことに心配することがあります。

 

どうしようもないし、そんな遠くの未来の話を考えても仕方ないんですけど、なんか心配で眠れないんですよね。

 

こういう気持ちがずっとあって、とにかく何事も心配で、不安なんです。だから必要以上に確認とか復習とか、ちゃんとしてたんですけど、いつからかそれが上手くいかなくなったりして。

顕著になったのは高校くらいからかな、やってきた課題忘れてたりそもそも課題のやる所を間違えてて授業でやってなくて分からないはずなのに延々と悩んでネットで調べて回答したけど間違っててとか、散々な高校生活でした。 まあ最終的に大学に入れたのでそれも報われたんですが。

 

 

 

常に不安だから努めて用心深くいることで安心を得たい僕は、今車の免許取得の中で堕落しています。それは高校から顕在化してきた不注意が加速してきたためです。

 

車好きな方には本当に悪いんですけど、本当に車というのは危ないです、僕には。

 

今の僕の精神構造というのは、車を自分で本当に運転したくないという所からスタートしています。僕には免許が身分証としての価値以上に見いだせるものが無いから、身分証なら他にも代わりになるものがあるから、免許なんて本当は無くてもいいやというふうになっているんだろうなと思います。

 

冷静になればこんな気持ちで免許取れるわけないですよね、笑えるといえば笑えるんですが、やはり辛いです。

 

 

 

「僕は、僕が生きる上での最大の目的というのは、僕が生きているということで生じる様々な杞憂から来る不安を払拭し、ただ生きることに納得できるような理由を見つけて、ただただ安心したいだけなんだけどなぁ」と、毎夜毎夜布団の中で考えている。そんな日々を昔送っていたんですが、また、そんなくらい日々に戻りそうです。