「君は遠回りが好きなのか?」「嫌いじゃないだろうね。」
GWなので少し早めに。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
僕は相変わらず草取りしたり勉強したりしています。
日々の暮らしに変化があまりないので、退屈だなあと最初は思っていました。
しかし、精神的に安定感があるので「これはこれで悪くないか…」なんて思ったりもします。
薬を処方して貰うようになってから、ADHDのことをどうにか克服したいなと思うわけですが、やり方があまりに愚直過ぎるのかな?と思ってきました。笑
というのも、普通ならADHDの対策本と言いますか、ADHDの対処法について分かりやすく書いてある本を読んで実践すればいいわけですよね。
たとえば、「後片付けができないのをどうしたらいいんだろう?」という悩み。
よくあると思うんですが、これにたいする解説書に書いてあることって
- 「とりあえず」その辺にあるものを入れておくボックス(とりあえずボックス)を作るといい
- モノの「置き場所」をきちんと決めておく
- 片付けが得意な人に手伝ってもらう
なんかが一般的なのかなあと思います。
置き場所を決めることで、自分の中のルール、つまり自己裁量によって整理整頓をやれるのはなんとなく気楽でやりやすい印象です。
そして「苦手なことは他人に手伝ってもらってやり遂げる」と。コレも立派な手段だと思います。
人に頼るのは情けないとか申し訳ないとか、そういう気持ちを持ちそうになるのは僕もそうだったのでよく分かります。
しかし、ADHDの特性は個性です。誰にでも苦手なことはありますから、そういう時にほかの人に手伝ってもらってでも「やり遂げる」ことが大切なんじゃないかなと思います、いろんな点で。
とまあ、この片付けのようにADHDの課題に対しては様々な方法、つまり「ハウツー的知識」があると思うわけです。
ハウツー的知識を学んで実践することで、生活の質はすごく上がると思うし心も体も楽になっていくんだろうなぁと思います。
しかし、僕の性分なのか…少し困ってます。
「なぜ(why)?」という部分(原因・法則・性質など)を徹底的に追求してしまいたい、そして全てを理解することによって「心の底から納得したい、安心したい」
という気持ちが強くあります。
以前からチョイチョイ書いてますが、ADHDの特徴にもあるように、不安障害的なものがあり、常に不安感を持っています。
不安感を払拭したいと思うのは自然で、ではどうしたらいいのか?となった時に僕は「メカニズムを理解したら、それ以降は不安を回避できるんじゃね?」と思いました。
確か、中学生に上がる頃に初めてこういうことを考えたような気がします。
それからというもの、自分が怯えてしまうこと、好きなこと、興味関心のある物事に関してはなるべく「why(原因)的知識」深く調べて、「へー!なるほどぉ!」と納得しては満足することを繰り返してきました。
そう考えると、かなり理系的だったのかも知れませんね。 原因は〜理由は〜なぜならば〜なんて言ってるのは科学者とかのイメージです。笑
文系に進みはしましたが、わりと理系脳も持ち合わせていたんだなぁと思うと腑に落ちたりもして、面白いもんです。
たぶん、興味を持つモノの順番でしたね。答えを探し求める学問として、最初に哲学に飛びついたのが文系を選ばせるきっかけだったのかも知れません。
という感じで、自分の過去やらなんやらを分析しまくっている近頃なわけです。完全にチラ裏ですね。笑
こういう自分のルーツとか記憶みたいなものを思い出したり、心理学(行動心理学など)や精神医学の知識が関係しているなと思えばつまみ食い的に調べては「なるほどぉ」ってなったりしてます。
マズローの五段階欲求、フロイトの防衛機制、それから最近のハウツー的知識にからめてアンガーマネジメント、マインドフルネス(瞑想に似ていますね)などなど、関係ありそうな「why的知識」をかき集めてみると、理解がリンクしているような感じがしてとても心地よいです。
しかし、本当の目的は「ADHDを理解して、受け入れること」なんですよね…笑
目的や方法、手段などがゴチャゴチャになっている気が最近してきました。
メカニズムの追求だけが問題を解決する方法ではなくて、単純に「どうにかする方法(ハウツー)」さえしっかり身につければ目的自体は達成出来る。
その辺りは考えを改めたいし、今後も興味のままに調べっぱなしにならないようにしたいです。時間も余計に沢山かかってしまいますしね。
クドクドと綴ってきましたけど、同じADHDの人がもし読んでくださってたら辛いかも知れませんね… 申し訳ないです。
ようするに、余計な知識を入れるより、必要な知識を得て実践していくとこまでをスピーディにこなすことが大切なんだ!ということです。
PCDAサイクルにもあるように、計画から改善までの1サイクルを何度も素早く繰り返すことで質が上がっていく。
としたら、頭の中で考えてるだけじゃダメだし僕らADHDだと余計やりがちでしんどいだけです。
「とりあえずやってみる」ことが大切な気がします。
もちろん、それが出来たら苦労してないんですけどね…。(>_<;)
- 個人的には「他人に引っ張ってもらう」
- 「あの人がああするから僕もそうする」
みたいな、他人を使って「外発的動機づけ」を出来れば、道は開けていくのかなと思います。
ADHD大変なんですけど、何とか受け入れられるよう心を落ち着けて余裕を持たせ、元気になって少しずつ活動できればいいなと思います。
GWも半分過ぎてしまいましたが、残りある人もそうでない人も心身をいたわりながら生活していってくださいね。
朝日は昇り、動物は目を覚ました。
月に2度くらいの更新が板についてきたような気がします。
色々思うことがあって、よく分からんがやってみて、振り返ってみて、また同じことを以前の失敗に気をつけてやってみる。
という、いわゆるPDCAサイクルの考え方だと思いますが、これで何度か巡回してみてやっとブログの更新ネタに結びついてる具合です。
一回に更新するネタのストックがだいたい今の生活で2週間分くらいです。約半月で、なにか一つ「これは…!」という出来事があったりしてるので、今後もこの位はうまく維持できればと思います。
前回は気持ちが上向いてきたことを書きました。具体的にどういう事をやってるのか?というところを振り返って書き残してみます。
〇今の自分に出来ること、やりたいことだけやる。
当たり前ですが、誰にでも「得手不得手」や「出来る出来ない」という所があります。
僕は一日家にいることが多いので、家のことくらいは多少やれればいいのかなと思い立ちました。
正直1日アニメ見てゲームして暮らせれば一番ですが、現状、家族の負担なんかを考えると僕が何かしら手伝った方がいい。
最終的に自分が暮らす家の住環境が整うことになりますから、自分にもプラスです。
ただやはりダルいので、考え方を変えてみました。「やりたくない」という感情と「これならやっても嫌じゃない」という感覚を天秤にかけるイメージです。
たとえば、家の草取りなどを最近するようになりました。
草取りって結構重労働なのでやりたくない感情が勝つ傾向が強いですね。僕も先入観とかあって最初はめちゃくちゃやりたくありませんでした。
しかし先日、父が座りながら作業・移動できるイスを買ってくれて、使ってみたところほぼしんどさを感じずに作業できるように。
また、草取りという作業自体はやや退屈ではあるけど簡単で何も考えずにやれるので考え事をしながら作業できて自分には合っていました。
そして最大の魅力かと思うんですが、草取りってやった後の成果がよく分かるんですね。
刈り取った草の塊の大きさとか、作業したあとの庭の整った美しさとか、自分でやると意外に素晴らしいんだな〜って感じます。
しんどくない程度の心地よい疲労感も相まって、やり甲斐や充実感のようなものも得られますし、家のハウスキーピングに大きく貢献できているという点も含めてとても自己評価の向上に役立っていると思います。
ADHD的な観点、私見ですが、僕の場合草取りにこんなメリットがあるのかなと感じました。
- 貢献活動による自己評価アップ
→ADHDの自己評価の低さ故の不安障害を「自分が貢献、役に立つんだ」という実感を得ることで克服。
- 適度な運動による気分転換
→ストラテラの副作用の眠気対策として、午前中は体を動かす用事を優先的にこなして眠気を飛ばすことに。
中でも草取りは太陽光浴びることでセロトニン分泌も促せて眠気への効果テキメン。
- 作業する楽しさ・創意工夫の意欲を養う
→上記の椅子のように作業が楽になる、捗るツールの導入などを検討することで作業がサクサク進んで、だんだん作業を面白く感じられるように。更なる活動への意欲にも繋がる
などなど。細かいメリットもいくらかほかにもあるように感じました。
〇相談できる相手を見つける
これは前回も書きましたが、悩んでることについて相談できる相手がいるだけで精神衛生上かなり違います。
特に相談したい内容に関して、解決に役立ってくれそうな人だと尚更いいです。当たり前ですけど。笑
僕の場合、ADHD全般のこと。それから両親に対して、ADHDの正しい理解のためどういう方法で説明すべきか?という方法を相談すること。この二つが悩み(課題)です。
前者は通院しているクリニックの先生に、後者は県の相談窓口センターのカウンセラーの方にそれぞれ相談させて頂いています。
相談相手に関しては、少し前に一元化することも考えました。
しかし、こちらのニーズが複合的に絡み合っていることや相談する環境、相手の専門分野などを考慮して、ニーズをある程度分けて扱うことにしました。
クリニックの先生にはADHDの治療について広く相談し、やるべきことを洗い出したりアドバイスを求めています。
とても的確な助言をもらえますが、このクリニックはかなり人気のあるところのようで、全ての患者を診察する都合なのか相談時間が短い。10~15分くらいかな。
一方、カウンセラーの方には家族とのコミュニケーションを柱に、ADHDの理解を求めていく方策に関して時間を長くとって検討しあっています。
クリニックの先生のように、薬を処方したり医学的見地からのアドバイスなどはそんなに貰える訳ではありません。
ですが長く時間をとって(1時間程度)話すことで近況から今後のことまで満遍なく、ある程度深く相談できています。
また様々な方法での支援(就労支援・憩いの場の提供・専門支援機関への紹介など)を行ってくれるので医師とは違ったADHDへのアプローチができると期待しています。
こちらから色んな人に会いに行く手間こそ多少は増えましたが、こうすることで問題の解決力がグンと上がりました。
「自分の悩み、問題が解決せず立ち止まっている」ということがとても問題です。兎にも角にも、「前進」するしかありません。
くだらない愚痴を聞いてくれる友達だったり、病気の相談を受けてくれる医師、老後のことを共に考える保険屋、FPの方など、いろんな人の、その人の「得意」に助けてもらう形で相談できる環境づくりがADHDには大切だと思います。
といった具合で最近は何とか心の元気を取り戻しつつ、生活しております。笑
今後はバイトが出来ればなぁと思っています。
普通の方と上手くコミュニケーションがとれて、仕事も自分なりにやり方を工夫して上手にこなせるようになれれば、とても自信がつくんじゃないかなと思っています。
ゆくゆくは関西に戻りたい。大学の友達とまた仲良く遊んで楽しく暮らしたい。
そういう気持ちを大切に、実現させるために今はゆっくり確実に歩を進めて行きたいと思います。
君の「 」は燃えているか。
桜が綺麗だなあという言い方で前回の記事を書き終え、今はほぼ葉桜に変わっています。
四月前半は何だかんだと辛いことがあり心身ともに疲れきっていたような気がします。自分のことを家族に理解してもらえない辛さというのは本当に大きいのです。
しかし、悪いことばかりだった中で少し希望が見えてきました。というのも、通院しているクリニックの先生の紹介で、若者を支援する県の相談窓口で話を聞いて頂けることになったのです。
クリニックの先生には本当にお世話になっているのですが、とても人気なクリニックゆえに一度の診察でお話出来る時間はとても短く、本質的なところまでうまく踏み込んで話すことが難しいところでした。
そこで、ある程度時間をかけてカウンセリングを行ったり、あるいはサポートをしてくれる団体などを紹介してくれる県の相談窓口を紹介して頂いたというわけです。これがとても救いになったように思います。
1体1で丁寧にいろんな角度から話をさせていただきながら、今の自分の状況や、今後乗り越えていくべき課題などについての考えがだんだんとクリアーになっていくのを感じ、手応えのようなものを感じました。
今後乗り越えていくべきなのは、家族にADHDのことを理解してもらうことがまず一つですが、これはとてもデリケートな問題だと思います…。
両親からしてみたら、息子がADHDだというのがショッキングで、世間体的に良く思えないことで、そもそもADHDだとかLDだとかそういうよく分からない病気だと言われてもどう反応すればいいかわからないetc..... という状態なのだと思います。
母親は診察に付き添ってきてくれましたし、父親は今までの小言やらのことに関して「すまん」と一言謝ってくれたりしたのですが、結局ADHDというものをまだ理解出来ていない状態です。
なので、今月頭のように、両親の発言によって僕の心が沈んでしまうことが今後再び起こるかもしれない、というか十分にありえるのだと思います。怖いです。
そこで家族にはADHDのことを理解してもらうことが、これから家族が(というか、僕が家族と)本当の意味で仲良くなるために避けては通れない課題になるというわけです。
しかし、先に述べたように「息子がADHDである」という事実。これは非常にショッキングなこと。なので、デリケートな問題になるのだと思います。
うまく丁寧に、両親にADHDのことを伝えて理解を求めていくためにたくさんの人にこれから協力をお願いして行くことになるのかなという具合ですね。
それと話は変わりますが、自分が精神的に立ち直るために色々試したことがあったんですけど、その中で今でも続いてて効果もあるなと感じたのは「ゼロ秒思考」です。
これは、かなーーりざっくり言うと、A4の紙に自分の思ったことを1分以内に書きなぐるといったもの(実際はもっと奥深いのですが…笑)で、自分の頭の中でごちゃごちゃぐるぐるとしている考えごとや悩み、やり場のない気持ちなどをありのまま書きなぐることでだんだんと整理されてゆきます。
最終的には「僕はこんなことを考えてたんだ」「実はこういう気持ちで、だから怒ってて、悔しくて、泣いてたんだ」なんて言うふうにすごく腑に落ちるっていうか。とにかく納得ができます。
これがADHDの自分にとってなんの役に立ったかというと、多分ぐるぐると悪い方へ考える負のスパイラルを止めること、そしてやるべきことを先延ばしにしがちというADHDの持つ性格に尻を叩くようにして追い込むというか。そうして行動まで一気に自分を促していくことが出来ているような気がします。
メモを書きなぐりまくると、ストレス耐性の低さから衝動的に拗ねてしまった親の小言に対しても
「親はなんであんなこと言うんだ、嫌な気持ちになるとか考えないのか?」
↓
「でも、もしかしたらADHDがストレス耐性弱いってちゃんと分かってないんじゃないか」
↓
「僕は勉強してADHDのこと多少知ってるけど、勉強しようと思わない限り普通の人がADHDについて知る機会なんてないよな…」
↓
「そう考えたら、親にとっては本当にただの小言でも、実際は僕の心を深く傷つけてしまうだなんて考えにたどり着くわけないもんな。それは仕方ないよ。」
↓
「というか、僕が今こういう状態なのを支えるために仕事をしてて、むこうもストレスが溜まっちゃって心に余裕がなくてこういうこと言っちゃうのかもな」
↓
「じゃあ、自分のためにも家族のためにも、家族全員でなんとか心の余裕を作れるように動いていかないといけない。どうしたらいいかな。たとえば....」
ちょっと長くなりましたけど、例えばこんなふうに、最初は親からの言葉で拗ねてメンタルボロボロなところからスタートしているんですが、様々な質問のフィルターを通しながら少しずつ納得してゆき、最終的には親を含めて家族のことを心配するまでになっています。
これがゼロ秒思考の著者の方の思うような使い方や効果なのかはちょっと分かりません。しかし、メモをとることで実際に精神的に落ち着いて物事を見つめられるようにはなったと思います。
なので、ADHDのワーキングメモリーの対策としてのメモをとることはもちろん一般的なのですが、衝動性からくる行動や感情の激しい起伏を上手く抑えようと思った時にこの思考整理術はとても使えるんじゃないかなと思いました。
もし、ADHDで感情の起伏が様々なトラブルにつながっていて苦しんでいる、悩んでいる方がいたら試しにやってみてほしいな〜なんて思います。
本では一つのメモを1分以内に書き上げる、とあるんですが、ある程度言葉が浮かぶようになってきたら少し時間を増やしてあげたり、終わっても書きたいことがあればあと1行分までは追加で書き加えてもいいというふうにすると、頭の中で考えてること、そういう言葉を上手くしっかりと引き出せると思います。
なんとなく、1分以内に書けなかったものは、書いちゃダメ!!みたいに思っちゃうんですけど、1分以内に書くっていう話の目的は恐らく「脳を追い込め!」というところにあるんだと思います。
なので、書きたい(書ける)と思ったら、それは時間に関わらずキリのいいところまで書いてみてほしいと思います。そして、意外と最後に付け加えたその行のメモがかなり大事だったりすることもよくあります。笑
という感じで、四月前半はしんどかったんですが、相談窓口とゼロ秒思考にかなり救われ、今はわりと心は上向きになってきています。
いつもこうでいたいと思うんですが難しい。でも、今は相談できる人や考えるための力もあるということで、しんどくなってきたらたくさん頼って乗り越えたいと思います。
春だけどかなり暑い今年の春を自分のやる気や情熱に重ねられるようにやっていきたいです。
溺るる流れに身を任せずに。
しばらくどっぷりと心と体が沈み込んでいました…。
散々今の生活に愚痴る形で前は書いたのですが、あれからある程度時間をおいて、モソモソとまたいろんなことをやっています。
ただ怠惰にしているだけというのはよほど得意でないと究極的に難しいです。
アニメを見て、好きな声優のニコ生やラジオを視聴し、昔途中でやめたプレステのゲームをクリアしたり、夜中にチャリンコでコンビニを無意味にハシゴしたり、自分の感覚の思うがままに動き続けました。
相変わらず友達には会えないし、好きなバンドのライブにはなかなか行けませんが、心の暗い部分はすこーーーーーしずつ薄まっていきました。なのでまだしんどいですがなんかやろ!と思ってADHDのことを自分なりに調べ始めました。
地元の市の図書館のホームページから蔵書検索などをしてみたところ、ADHDに関する本がいくつかあったので、他に興味のあるトピックの本も併せて借りて読むことを半月ほど繰り返してみました。
ADHDのことを知るにつれて、僕はより一層「ああやっぱ俺はADHDだわ」と思ったし、一番驚いたのは「こういうこともあるのか?!そりゃ、ADHDは辛いわ...」ということも調べるうちにいくつか分かったことです。
ADHDは不注意性や衝動性に関する諸症状を持つ障害なわけで辛い点というのは、具体的には「時間管理が下手」「衝動買いがやめられない」「物忘れが多い」などの例が一般的には知られているようです。
しかし、個人的にこれは辛いし今までの経験からして納得だわ!というものもありました。それは「ストレス耐性が非常に弱い」ということです。
これはADHDの脳機能障害が関係しているということらしいですが、このためにトラウマ的な内容に対する抵抗力がとても弱くなってしまっているのだそうです。
考えてみれば、「ものごとを継続するのが難しい」であったり「衝動的に行動する」といったことはストレス耐性の低さとかなり関係があるんじゃないかと思うんです。
ものごとを継続するのが難しいのは、ずっと同じことに集中するのに疲れて耐えられなくなるとかじれったくなってしまうことだったり、衝動的な行動というのもストレス耐性の低さから、嫌なことから逃げたいがために衝動的に逃げる(もしくは現実逃避する)ような行動をとってしまうんだと思うとエラく納得がいくなと感じます。
ふと思い出しましたが、大学の頃、講義は90分間でしたけど興味のある講義はよほど夜更かしやオール明けでもしてなければ絶対にずっと起きてたし、楽しく受講していたものです。逆に単位の関係上取らざるを得ず興味のない授業はほぼ確実に寝てしまっていたか、うわのそら、起きていても何か別のことをしていたように思います。
ストレス耐性が低いのであれば、僕たちADHD持ちというのはある意味常にストレスにさらされているようなものなのかもしれません。
なぜかというと、日常に潜む些細なストレスが僕たちにとっては忌避すべきもので、そうしたストレスとの遭遇を避けることに神経をとがらせている必要があるからです。
耐性が低ければ、実際にストレスを受けてしまった際のダメージは大きく、通常時でさえ生きづらさを感じている精神状態にさらに大打撃を与えることになります。そうなれば、とても健やかな生活を送るのは非常に困難になるのではないでしょうか。
本当のところはどうなのかは知りませんが、僕たちが日々悩まされている諸症状というのは、ストレス耐性の低い自身の精神状態を健康に保ち、ある程度のストレスをやり過ごすために発生している側面があったりするのでは?と勝手に思ったりしています。
実際に、普通の人間だってどうでもいいことや嫌なことは忘れる、もしくは考えないように自然とそういう「処理(?)」みたいなことをするわけじゃないですか。だったらADHDのストレス耐性だって一緒だよなーとか、そういうことを思ったりしました。
さて、ADHDをいろいろ勉強してみて自分のことがざっくりとわかってきたような気がします。そして何か困った場合に「どうやって自分を導いていけばいいか?対処すればいいか?」というよくあるケースについてまとめられた本なども見つけたりしたので、今後はADHDのライフハック的なことを思うままに勉強してみようと思っています。
前の記事をシコシコと綴っていた時に比べて「やれることがあるな」と思えているあたりだいぶ上向いてきたように思えます。希望も何もないとかいうニヒルな気分(今も半分はそうですが)でしたけど、何か道筋がシュッと見えた時は安心するというか、まだやりようがあるんだと分かればまだあきらめずに済みます。
まだ相変わらず不便で、娯楽ないし仲間もいない実家の町でモゾモゾとしてはいますが、今は少し未来のことを考えてみたいと思えている自分が少し素敵だと思えます。
この町でも桜が咲き始めました。ああ、桜ってこんなにきれいだったんですね。
晴れでも雨でもかわらない。
日々の暮らしを楽しむことが出来れば、それが新たなエネルギーになってその後の生活を作っていくことになると思うんですが、今の僕にはそういう楽しめることがなくて気持ちが沈む一方です。
関西で暮らしていた大学時代、音楽が好きということもありライブハウスに通ったり楽器屋で好きなギターを試奏させてもらったり、たくさん音楽に触れる機会や場所がありました。
それに大学の友達がいて、どこかで遊んだりお酒を飲んで色んなことを語らいあったりすることも出来ました。
しかし、地元での暮らしが始まるとそういった交遊も全くなくなりました。たまに関西の友達からラインが来て少し電話したりするくらいです。
つらい。僕には今心の支えになるもの、心の糧というものがほぼありません。かろうじて持って帰ってきたギターを弾いたり、今期楽しみにしているアニメを観たりして凌いでいるという状態にあります。
やらなければいけないこと、やりたいこと、沢山あるんです。
しかし、何かをやろう!というバイタリティが今の僕には不足しているのです。
僕の世界は今、自宅のベッドの上とスマホを通じて見えるネットの世界が全てです。
こんなことでは、頭が狂ってしまいそうです。
なんとか、なんとか、楽しみを見つけなければならないと思います。生きる歓びを探しに行かなければいけないと思います。
そうしないと、僕は明日に耐えられません。
四の五の言いながら生きてるんやで。
相変わらず低空飛行を続けています。
毎日をどう過ごしてみるか、まだ考え実践してみる余地はありそうだと思うので色々やってみようと思います。
ただ、やはりこのまま地元にいて心の栄養になる刺激はないと改めて思います。どこかへ自分で出ていかないとダメっぽい。
僕はやはり音楽が好きなので、そういうものをやっている場所、ライブハウスやコンサートホールなどに行って、好きなアーティストを観て、素直に感動したいと思うわけです。
地元にもそういうライブハウスは街の方にありますから、そこへ行けば何か楽しいことがきっとあると思うし、頑張れるんじゃないかなって思うんですね。
思う、思うばかりでまだまだ確証はないんですが、思いつく限りではそれくらいしかないかなと。笑
ライブを観て元気をもらう、ライブを観るその為にバイトを頑張る、バイトを頑張れば貯金も少しずつでもできる。
結局、動機づけだとか、意味づけをしていくことでまずは動いていけるのかなって思います。
とりあえず、何かきっかけになるようなライブやら、うまく働いていけそうなバイトなどが有れば、と思います…。
もうすぐ春が来るけど
「何も面白くねえなあー」
「楽しいことが何もねえ」
「何をするにも退屈でうんざりしている」
最近考えていること、大体はこんな感じです。
先日、バイトが難しすぎると言っていましたが無事にやめることが出来ました。正直にADHDのことを打ち明けたら優しく対応していただけたので、元バイト先の方々には本当に申し訳ないと思いつつ、とても感謝しています。
新たに稼ぐ方法を見つけなければいけなくて、様々なアルバイト情報サイト(タウンワークとか、ああいうやつ)を片っ端から見ていましたが、どうにも食指が動かないというか。どうしても選り好みしてしまいます。
関西にいた頃はバイトなんてたくさん種類があったし、レアなバイト(電車の掃除とか)もあって観てて「どれにしよ〜」なんてニタニタしてたもんですけど、ハッキリ言っちゃうと地元はクソ田舎で、楽しそうなアルバイトは特に求人が全く無くて落胆している状況。
まあ、そりゃ人もそんなには多くない街だしそんな需要がないってのも分かるんだけど、若者にとってあまりにも退屈すぎる土地なんですよね。辛うじてゲーセンがいくつかあって、でも少しUFOキャッチャーやって、レースゲームやって、飽きてしまって、何をするわけでもなくぼーっとして…
田舎を自然豊かだということは出来ますが、自分としては退屈すぎるから嫌で出ていった所もあるので、やはり帰ってきてもそれが変わることはありません。
娯楽や刺激がないので、段々と冒頭のような思考が頻繁に湧いてくるようになりました。
やらなきゃいけない事が沢山あるのはもちろんそうなんです。事実なんです。だけど、それをやる間何か楽しいことが少しでもないと僕はどうにかなってしまいそうです。
だからネットサーフィンに逃げたりもするんですが、なんだろう、ネットサーフィンをしてても面白いことには限りがあるし、面白いことであっても飽きたりはするし、心の拠り所って「常にここにある!」って感じではないのかなぁって思います。
やっぱり、関西に帰って友達と一緒に楽しく仲良く暮らしていたい気持ちがあります。
その為に頑張らなきゃいけないんですけど、なんていうか、帰ってきて1月くらい経つんですけど、不器用だしなかなか成果も出せないし、そろそろ1度ふてくされそうです。
僕はやはりポンコツだなあ、と思わされますね。なんでこんなに上手くいかないんだろうな。