ストラテラ服用2日目。
なんとか日付変わる前に更新できました。
今日は狙ったわけでもなく四時半に起きてしまった。
特にすることを考えてもいなかったから、インスタントコーヒーを飲んで一息ついたら軽く筋トレをした。冬の寒さで、汗は手汗を除いて全く出なかった。
その後は散歩したりラジオ体操をしながら7時まで過ごして、朝食とストラテラを服用。
副作用としてはやはり
①軽い胃痛
② 〃 吐き気
③食欲の減退
があった。
今は慣らしの40mgなのだけど、今後治療に際して増量し、80~120mg(つまり2倍から3倍の量!)を服用することになる。
果たしてその時の副作用はどれほどのものなのか。それが気になる。
また明日。
ストラテラ服用1日目。
今朝は(自分なりに)頑張って(?)9時半に起床。
こんな生活、ブログ始めた当初の自分に叱られそうです。笑
10時前に朝食。そして食後にストラテラと、ストラテラによる胃腸の不具合(胃痛、腹痛、吐き気など)を緩和するための胃薬をそれぞれ1錠服用しました。これを2週間続けます。
ストラテラには様々な副作用があるそうで、今の胃腸系の不具合の他に頭痛やめまい、動悸などがあるそうなのですが、顕れ方は人それぞれだとか。
初日の僕が感じた限りでは
・服用して少しすると軽い胃痛
・軽い吐き気
・食欲の減退
あたりがあったのかなと。
また、最重要事項であるメリットについてなのですがこちらは速効性がないらしく、継続して数週間服用することで効果が徐々に現れてくるのだということらしいです。
ほんのり、頭の中がスッキリしたという気はしました。あと体全体がなんとなく動かしやすくなった。「あれやるか」と思っていつもだったらダルくて「やっぱええわ」となっていたところがヒョイと動かせるような気が。
あと、メリットではないかも知れませんがなんとなくダウナーな感じになりました。感情がほんのり大人しくなった?というか、少し暗く??なったというか。
何事にも落ち着いて向き合えるようになった気がします。気がするだけかも知れません。
とまあ、こんな感じでした。
また明日も余裕あれば書きます。
綻び
かなり久しぶりの更新になりました…
といっても、前もそうでしたね。(苦笑)
年末から2ヶ月の間何をしていたかというと、前回の記事通り両親にADHDのことを打ち明けました。
そして結論からいうと、「恐らくADHDである」ということです。
恐らく、なのは「可能性が高い」と言われて薬を処方されたという結果だったので断定されていない分、こちらも断言するには至れないのかな?というふうに思ったからです。
さて、年始頃に両親にADHDの事や病院に行きたいという内容を打ち明けたところ、両親としては「そんなことはないと思うが… お前の考えすぎではないか?」といった反応でした。
ただ幸いにも「そんなことない!甘えだ!」というような態度ではなく、「お前がそういうなら病院に行ってみるか」という協力的な雰囲気でいてくれたのでそこは助かりました。
ネットで色々調べていましたが、主な順序としては
→病院探し
→予約、受診
→診断、治療開始
という具合だったのですが、母親が知り合いに病院を紹介してもらったとのことでそちらに行く事になりました。
普通であれば精神科やクリニックは混むので、予約から受診まで1ヶ月ほどはかかると思っていました。しかし運が良かったのかスグに受診することが出来ました。
初診はどういった症状か等を訊かれ、ADHDのチェックリストを渡されて「該当すると思われる箇所に印を付けてきてください」といわれて終了。
翌日にでも再び行けばよかったのですが、1月頭から僕の生活は昼夜逆転になっておりました。お恥ずかしいことに年末年始は夜通し友達と遊びまくっていたためそうなったのだろうと思います。
受診は僕の実家からバスで40分ほど行った市街の中にあるのですが、時間の都合的に午前中に起きないと受診が難しく、あと言ってしまえば「起きれなかった… 今行ったら午後の受診か… ダルすぎかよ」という自分の怠惰さも手伝いなかなか2度目の受診に行けませんでした。
そうして2度目の受診は昨日になりました。ADHDチェックリストを渡して少し話したところ、先生から「ADHDの不注意型の可能性があります」との診断。
そしてなんと、ストラテラ40mgを2週間分処方されました。なんというか、感動してしまいました。
当初考えてた順序からいけば薬の処方まで数ヶ月かなと考えていました。なので実際1ヶ月ほどで投薬まで漕ぎ着けたのは本当に有難かったです。
先生とも話しましたが、今現在実家で治療にあたっているのですがゆくゆくはまた関西に戻りたい!という思いがあるので、今回のADHDの症状をなんとかコントロール出来るところまで持っていけるよう、関西でまた一人暮らしできるように今後はなんとかやっていきたいと思っています。
また、処方されたストラテラという薬はADHDの薬として知られているのですが、副作用があるとのことです。なので細かな様子などを含めて今後、頻度を初期くらいに戻してまたちょこちょこと更新してみようと思います、良かったらまた覗きに来てください。
服用1日目の記事は早速書いてみようと思います。
重み
久しぶりに更新です。
一ヶ月以上間が空いて、色々なことがあった。
実はまだ免許は取れていなくて、結局精神的な辛さから一人暮らしの家に戻ってきてしまった。
帰ってきたはいいのだが、金銭的なトラブルに迫られて心が重くズーンとしてしまった。
生きづらさを今まさに強く感じていて「なんで、こんなに苦しい日々を過ごしていて、なんでこんなに上手くいかないんだろう」とずっと考えている。
やはり僕はADHDなのだろうと思う。まだ病院にも行っていないだらしない僕だが、そうなんだろうと思う。
両親に打ち明けることが怖い。「お前の子供は発達障害だ」と告げる事はとても残酷なのだから、それを子自らというのはダメージは大きいに違いない。
辛い戦いになる、しかし、そうしないと僕は「死ぬしかない」! 何もせずに死ぬのは僕のポリシーに反するというか、因果をハッキリさせないと落ち着かないのだ。
僕は今夜打ち明ける。2017年を迎えられるかは今夜次第なのだ
重力に従って潰れるフリをしたらそんなことは無理だと言われた。
相変わらず不定期更新していますが、僕は元気です。
最近は謎の倦怠感に襲われて4日ほど家からほぼ出ない生活を送っていました。
車の免許を諦めかけていたのですが、マニュアルからATに変えることにしました。しかし教習所まで行くのがちょー面倒。しかも行ったら行ったでたぶん久しぶりすぎて色々一方的に気まずい。
まあでも行かなきゃ始まらんのだけどね…。
眼前にある難しいことに対してどういう処理をするのかは永遠のテーマというか、当たり前ながら現時点でそれを乗り越えるのは能力的に難しい。だからよく考える必要があると思う。
ただでさえADHDぽくて(まだ病院行けてない)気が移ろいやすいところがあるので、気を引き締めて取り組まないといけない。
難しいことを乗り越えるなら何かしら鍛錬が必要なのだが、重要なのは「問題を処理すること」なのを僕らは忘れがちなのだ。
ハードルという言葉がよく使われる。何かを達成する時にハードルを「飛び越える」とか言ったりする。しかし、僕らの目的はなんだ?
それを忘れてはいけない。ハードルを超えるのはなぜなのか。それは、「ハードルの向こう側に行くため」じゃないのか?
勘違いしてはいけない。ハードルを超えること、そしてそれによって自己を高めることが目的なんだったら最初からアプローチが違うだろう。
焦ってはいけない。「向こう側」に行く方法なんて他にもある。飛び越えられないなら、下の所をくぐればいい。それか、横に回ってそのまま進めばいい。そうじゃないか?
回りくどくなったが、僕はあくまで運転免許が欲しいのであって、マニュアルでなくとも良い。マニュアルだったらATも運転できるから便利なんだとか、その程度だ。
偏見なのだろうけど、マニュアル免許をとっている周りの人は「ATはつまらん」「マニュアルは面白い」「男はマニュアルだろ」と口々に言うのだ。そしてその言葉は全く僕には響いてこなかった。
僕は車を移動手段としか思ってないし、ツマランとか楽しいの境地に至ってすらいないむしろ人を殺さないか心配で仕方ない。そういうクソ下手くそ人間だっているんだ。
それに、マニュアル車は今後減っていくと言われているし、将来車を買うとしたら幅広く選べるATの方が僕はいいと思う。
あと、これは実際うちの家族がそうなんだけどマニュアル免許とAT免許の人がいると、ATの人に合わせて車を買うことが多い。AT限定の人が乗れないと日常生活に支障が出るからなのだが、これはかえってマニュアルが非効率な気がする。
以上のことから、マニュアル免許は僕には必要ないという結論に至った。マニュアルの人は技術的にも、車への愛情的にも凄いなと逆に尊敬できるくらいだ。
男に生まれて24年、それなりに機械へのロマンはあったと思うが操作は向いてないみたいだ。笑 ガンダムがこの世にあったとして、僕みたいなのは絶対操作できないだろうから邪魔にならないところで戦いを見守っている貧弱な市民でいることだろう。
一つのことに自分で答えを出すというのも楽じゃないなと感じる。車のマニュアルATでこんなに迷ったり挫折したりするとは思わなかった。
大人たちは「世の中に出たらこの程度では済まない。さらに辛いことが沢山あるぞ」と脅しにかかるのだ。 正直コイツらは馬鹿じゃないかと思う。
細かいことは書かないが、これから社会に羽ばたいていこうと頑張る若者に対して「社会に出たら辛いことばかりだ、しんどい」というのは「社会人になってもいいことは少ないし嫌なことばかりだ」と言ってるようなもので、特に親がこれを息子娘に言うのは頭がどうかしている。
「俺もしんどい思いをしたんだからお前も同じ目に遭え」という、陰惨な精神構造なのかなんなのか分からない。全くわからない。ただの陰キャじゃねーか。
そら若者は何がしたいのかわからないまま、社会人になって、内定を出してくれる会社に勤めて「やりたいことは分からないけど今の仕事は少なくともやりたいことじゃない」とかいってすぐ辞めますし、社会に絶望してニートにもなれば都合よくフリーターや派遣にもなって、終いにはそれなりの資本のある人間は海外に行ったりしますよそらそうですよ。
日本は治安が良くて飯がうまいというのは、他国と比較すればたしかにそんな気もする。でも、人々の心はあまりに縛られて冷えきってるような気もする。何でここまでして働くのか僕にはわからない。
経済大国で居続けていくことにそこまでこだわるのはまあ政治的な理由もいくつかあるんだろうしそれも納得出来る正当性、エビデンスだってあるんだろうけど、僕は本当にそういうのに疲れてしまいそうだ。その流れからどうにかドロップアウトさせてほしいものだ。ゆっくりと穏やかに音楽をして、程々に仕事をして給料をもらって、それで趣味に興じていたい。
なんでこんなに息苦しいんだこの国は。
「僕はただ、生きることに安心したいだけなんだけどなぁ。」
昨日の記事でADHDのことを扱ったんですけどいきなりアクセスがあって驚いています。 今この時も苦しんでおられる方がいるのだな、ということを考えさせられました。
また稚拙な文章なのでお目汚しになっていることも多いかと思います、すみません。
前回の最後の方で書いていたことについて、もう少し書きたいと思います。
僕がADHDとか鬱のような心の病なのかそうでないか、それが僕にとっては問題なのですが、もっと言うと、何かしらの原因があるとしてそれを知って「納得したい」んです。そして、理解して「安心したい」んです。
この、「安心したい」という気持ちは思えば生きてきて24年間常に考えていた事だなと思います。
小学生の頃、図書館で本を読んでいた時に言葉の由来について書かれた児童書がありました。僕はその本が好きでシリーズものだったんですがすべて読んでいて、その中で「杞憂」という言葉に出会いました。
杞憂というのは、心配しすぎることだとか余計な心配という意味だと認識していますがこの逸話に、幼心ながらとても共感しまったのです。
昔、中国の杞の国の人が「天が落ちたり、大地が崩れたらどうしよう」と有り得ないことを心配して(憂いて)食事もできずにいたという話から生まれた言葉が杞憂なのですが、僕も結構な頻度で「石油が明日尽きたらどうする」とか「地球が人間の住めるところでなくなったらどうする」とかそういう不毛なことに心配することがあります。
どうしようもないし、そんな遠くの未来の話を考えても仕方ないんですけど、なんか心配で眠れないんですよね。
こういう気持ちがずっとあって、とにかく何事も心配で、不安なんです。だから必要以上に確認とか復習とか、ちゃんとしてたんですけど、いつからかそれが上手くいかなくなったりして。
顕著になったのは高校くらいからかな、やってきた課題忘れてたりそもそも課題のやる所を間違えてて授業でやってなくて分からないはずなのに延々と悩んでネットで調べて回答したけど間違っててとか、散々な高校生活でした。 まあ最終的に大学に入れたのでそれも報われたんですが。
常に不安だから努めて用心深くいることで安心を得たい僕は、今車の免許取得の中で堕落しています。それは高校から顕在化してきた不注意が加速してきたためです。
車好きな方には本当に悪いんですけど、本当に車というのは危ないです、僕には。
今の僕の精神構造というのは、車を自分で本当に運転したくないという所からスタートしています。僕には免許が身分証としての価値以上に見いだせるものが無いから、身分証なら他にも代わりになるものがあるから、免許なんて本当は無くてもいいやというふうになっているんだろうなと思います。
冷静になればこんな気持ちで免許取れるわけないですよね、笑えるといえば笑えるんですが、やはり辛いです。
「僕は、僕が生きる上での最大の目的というのは、僕が生きているということで生じる様々な杞憂から来る不安を払拭し、ただ生きることに納得できるような理由を見つけて、ただただ安心したいだけなんだけどなぁ」と、毎夜毎夜布団の中で考えている。そんな日々を昔送っていたんですが、また、そんなくらい日々に戻りそうです。
この二週間ほどのこと。
最近はすっかり更新しなくなりましたが、しぶとく生きてます。
しかし、気分はあまりよくないという具合です。というのも、最近生活がうまくいっていないからです。
帰省しているのですが、目的は両親と進路の相談をすること、歯の治療をすること、車の運転免許取得です。進路と歯医者は何とかこなしたものの、免許取得の進捗があまりに思わしくない結果になりつつあります。
元々、どこかの場所に決まった時間に毎日通うというのが「死ぬほどキライ」だったのですが、小中高と義務教育やその他外的な強制力のおかげでなんとか無理やり物理的に学校へ体を運んでいました。心は完全にどこか遠くだったように思います…(;´・ω・)
そんな人間が大学に入ると外的な強制力もない自由な生活に溺れるのは言うまでもなく、結局は以前の記事にも書いたように1年半の留年をしてしまいました。
大学生活は怠惰を極めてしまったといってもいいくらいだったので、甘えの要素も十二分に認められますし、怒られても仕方ないなともある程度は思えました。しかし今の状況は単にそれだけで語れないのかなと思います。
現状、車の免許が取得できず帰ることができないという中で「何とか免許取って帰りたい」と思っているにもかかわらず、車の免許を取りに行くための通学が辛すぎて、家から出たくないんです。
靴を履いて玄関を出ようとしたら心拍数が急に上がってしんどくなったりするし、吐き気が出てきて嘔吐してしまい、結局辛くなって動けずに1日を無駄にしてしまったり…と気分は急激に落ち込むばかりです。
MT仮免の学科はなんとかパスしたものの、技能がからっきしダメです。いつもと違うコースを走るだけでも緊張するのに試験官が難しいところを運転している最中に指示を出すのでよく聞き取れず聞き返すことはしょっちゅうで、先日落ちた時は「そもそも支持が聞こえてなかった」という練習とかそれ以前の問題でした。
おかげで踏切停止の指示が全く聞こえず一発中止でした。帰り道に、ハタチになって初めて歩きながら泣いてしまいました。辛いです。
僕は不器用なのですが、それでもそのカバーをするために練習してみたり、煮え切らない心をフルスロットルにしてある程度の頻度で教習に通ってなんとか3か月かけてここまで来ました。しかし、ここまで人と同じようにできないということを思い知らされた今、自分なりの工夫が通用してこないことにいら立ち無く、無力感だけが積み重なってくるような気分です。
とても暗いコトばかりでスミマセン、しかし自分の現状の辛さを何かしら書いて発散できればと思って書いています。
さて、こうした辛いことにはある程度昔から心当たりがありまして、あまり考えないようにしていましたがネットである程度心の病について調べていました。すると、どうやらADHDではないのか、というかねてからの疑問が割と形を成してきました。
不注意や多動性、衝動性といったものはすべて運転中の動作で当てはまってしまいます。
(不注意)
・教官の指示聞き漏らし
・標識の見落とし
・運転操作の手順間違い、やり忘れ
・直線でもキープレフトが維持できずふらつく
(多動性)
・クラッチを踏んでいないときの貧乏ゆすり
・停車中のブレーキを踏む右足で貧乏ゆすり→動く
・安全確認が不安で2,3回やったりひどいと5回やる
(衝動性)これは主に生活の中が多いけど
・衝動買いが抑えられない
・試験官の指示が聞こえなかったことに抗議しかけたけどイライラしつつ我慢
とまあ、おそらく数えだしたらキリがないくらいまだまだありますが主にこういった具合でした。
ネットで多少かじった程度の知識で書いているので、もしかしたら厳密にはADHDと関係なかったりすることもあるかもしれません、ネット情報を踏まえた私見です。
僕は精神科って高校のころに1度行って、軽いウツか何かと診断されて2週間学校を休んだくらいでしたが、また行くことになるのかなと、少し不安です。
調べている中で分かりましたが、成人のADHDの診断をされているお医者さんというのはとても少ないそうですね、ですから普通の精神科に行ってももしかしたら意味がないのかもしれないし、かといってそのままにしていて疑問を抱えながらこの先何十年も生きていくというのはあまりにも辛すぎる。なので、そう遠くないうちに精神科へ通うことになるかと思います。
一般的な健常者からのイメージですが、心の病というのは甘えだったり、だらしないだけなんだという考え方があると思います。僕だって自分の大学生活は甘えによる結果だと認めざるを得ないなと思えるくらいには、ある意味よくある考え方なのだと思います。
しかし、今こんなに苦しい思いをしてしまっているのも甘えなのだとしたら、「甘えずにこんなにも辛い道をみんな走り抜けていったのか?!?!?!」と思わずにはいられないのです。周りの人たちが急にすごく強いっていうか、優れた人間に思えてくるんです。劣等感が尋常ではないんです。
だから、「早くラクになりたい」と切に願います。そのために僕は、ブログの最初の記事で書いたように「納得したいだけだ!」と言いたいのです。
僕がADHDなのか、はたまたアスペルガーなのか、うつなのか強迫障害なのか、つまり僕が心の病なのか。それとも、ただちょっとした不幸なことが重なって心が少し折れただけでそんなにたいしたことはないのか。それが知りたいだけなんですよ。
心の病なんだったら「ああ、病気だったんだ。この辛さは病気によるものなんだ、なるほどね」と納得できるだろう。
それに、たいしたことのない甘えだったとして「そうか、病気じゃないならまだ深刻ではないのかもしれないし、ちょっとポジティブになれた、よかった。その原因を取り除いてやればかなり良くなるだろう」といえるだろうし、納得するんです。
そのうち、精神科で診てもらいます。ADHDだったら、「新しい自分になった」くらいの感じで明るく新しい自分を迎え入れてあげたいと思います。