緩繰返す

留年&無い内定で大卒 / その後ADHD発覚 / 自分に合う働き方・暮らし模索中 / ギター弾きます / ダイエット挑戦中

重力に従って潰れるフリをしたらそんなことは無理だと言われた。

相変わらず不定期更新していますが、僕は元気です。

 

 

 

最近は謎の倦怠感に襲われて4日ほど家からほぼ出ない生活を送っていました。

車の免許を諦めかけていたのですが、マニュアルからATに変えることにしました。しかし教習所まで行くのがちょー面倒。しかも行ったら行ったでたぶん久しぶりすぎて色々一方的に気まずい。

まあでも行かなきゃ始まらんのだけどね…。

 

 

眼前にある難しいことに対してどういう処理をするのかは永遠のテーマというか、当たり前ながら現時点でそれを乗り越えるのは能力的に難しい。だからよく考える必要があると思う。

 

ただでさえADHDぽくて(まだ病院行けてない)気が移ろいやすいところがあるので、気を引き締めて取り組まないといけない。

 

難しいことを乗り越えるなら何かしら鍛錬が必要なのだが、重要なのは「問題を処理すること」なのを僕らは忘れがちなのだ。

 

ハードルという言葉がよく使われる。何かを達成する時にハードルを「飛び越える」とか言ったりする。しかし、僕らの目的はなんだ?

 

 

それを忘れてはいけない。ハードルを超えるのはなぜなのか。それは、「ハードルの向こう側に行くため」じゃないのか?

 

勘違いしてはいけない。ハードルを超えること、そしてそれによって自己を高めることが目的なんだったら最初からアプローチが違うだろう。

 

 

焦ってはいけない。「向こう側」に行く方法なんて他にもある。飛び越えられないなら、下の所をくぐればいい。それか、横に回ってそのまま進めばいい。そうじゃないか?

 

 

回りくどくなったが、僕はあくまで運転免許が欲しいのであって、マニュアルでなくとも良い。マニュアルだったらATも運転できるから便利なんだとか、その程度だ。

 

偏見なのだろうけど、マニュアル免許をとっている周りの人は「ATはつまらん」「マニュアルは面白い」「男はマニュアルだろ」と口々に言うのだ。そしてその言葉は全く僕には響いてこなかった。

 

僕は車を移動手段としか思ってないし、ツマランとか楽しいの境地に至ってすらいないむしろ人を殺さないか心配で仕方ない。そういうクソ下手くそ人間だっているんだ。

それに、マニュアル車は今後減っていくと言われているし、将来車を買うとしたら幅広く選べるATの方が僕はいいと思う。

 

あと、これは実際うちの家族がそうなんだけどマニュアル免許とAT免許の人がいると、ATの人に合わせて車を買うことが多い。AT限定の人が乗れないと日常生活に支障が出るからなのだが、これはかえってマニュアルが非効率な気がする。

 

以上のことから、マニュアル免許は僕には必要ないという結論に至った。マニュアルの人は技術的にも、車への愛情的にも凄いなと逆に尊敬できるくらいだ。

 

男に生まれて24年、それなりに機械へのロマンはあったと思うが操作は向いてないみたいだ。笑 ガンダムがこの世にあったとして、僕みたいなのは絶対操作できないだろうから邪魔にならないところで戦いを見守っている貧弱な市民でいることだろう。

 

 

一つのことに自分で答えを出すというのも楽じゃないなと感じる。車のマニュアルATでこんなに迷ったり挫折したりするとは思わなかった。

 

大人たちは「世の中に出たらこの程度では済まない。さらに辛いことが沢山あるぞ」と脅しにかかるのだ。 正直コイツらは馬鹿じゃないかと思う。

 

細かいことは書かないが、これから社会に羽ばたいていこうと頑張る若者に対して「社会に出たら辛いことばかりだ、しんどい」というのは「社会人になってもいいことは少ないし嫌なことばかりだ」と言ってるようなもので、特に親がこれを息子娘に言うのは頭がどうかしている。

 

「俺もしんどい思いをしたんだからお前も同じ目に遭え」という、陰惨な精神構造なのかなんなのか分からない。全くわからない。ただの陰キャじゃねーか。

 

そら若者は何がしたいのかわからないまま、社会人になって、内定を出してくれる会社に勤めて「やりたいことは分からないけど今の仕事は少なくともやりたいことじゃない」とかいってすぐ辞めますし、社会に絶望してニートにもなれば都合よくフリーターや派遣にもなって、終いにはそれなりの資本のある人間は海外に行ったりしますよそらそうですよ。

 

日本は治安が良くて飯がうまいというのは、他国と比較すればたしかにそんな気もする。でも、人々の心はあまりに縛られて冷えきってるような気もする。何でここまでして働くのか僕にはわからない。

経済大国で居続けていくことにそこまでこだわるのはまあ政治的な理由もいくつかあるんだろうしそれも納得出来る正当性、エビデンスだってあるんだろうけど、僕は本当にそういうのに疲れてしまいそうだ。その流れからどうにかドロップアウトさせてほしいものだ。ゆっくりと穏やかに音楽をして、程々に仕事をして給料をもらって、それで趣味に興じていたい。

 

なんでこんなに息苦しいんだこの国は。

「僕はただ、生きることに安心したいだけなんだけどなぁ。」

昨日の記事でADHDのことを扱ったんですけどいきなりアクセスがあって驚いています。 今この時も苦しんでおられる方がいるのだな、ということを考えさせられました。

また稚拙な文章なのでお目汚しになっていることも多いかと思います、すみません。

 

 

前回の最後の方で書いていたことについて、もう少し書きたいと思います。

 

僕がADHDとか鬱のような心の病なのかそうでないか、それが僕にとっては問題なのですが、もっと言うと、何かしらの原因があるとしてそれを知って「納得したい」んです。そして、理解して「安心したい」んです。

 

 

この、「安心したい」という気持ちは思えば生きてきて24年間常に考えていた事だなと思います。

 

小学生の頃、図書館で本を読んでいた時に言葉の由来について書かれた児童書がありました。僕はその本が好きでシリーズものだったんですがすべて読んでいて、その中で「杞憂」という言葉に出会いました。

 

杞憂というのは、心配しすぎることだとか余計な心配という意味だと認識していますがこの逸話に、幼心ながらとても共感しまったのです。

 

昔、中国の杞の国の人が「天が落ちたり、大地が崩れたらどうしよう」と有り得ないことを心配して(憂いて)食事もできずにいたという話から生まれた言葉が杞憂なのですが、僕も結構な頻度で「石油が明日尽きたらどうする」とか「地球が人間の住めるところでなくなったらどうする」とかそういう不毛なことに心配することがあります。

 

どうしようもないし、そんな遠くの未来の話を考えても仕方ないんですけど、なんか心配で眠れないんですよね。

 

こういう気持ちがずっとあって、とにかく何事も心配で、不安なんです。だから必要以上に確認とか復習とか、ちゃんとしてたんですけど、いつからかそれが上手くいかなくなったりして。

顕著になったのは高校くらいからかな、やってきた課題忘れてたりそもそも課題のやる所を間違えてて授業でやってなくて分からないはずなのに延々と悩んでネットで調べて回答したけど間違っててとか、散々な高校生活でした。 まあ最終的に大学に入れたのでそれも報われたんですが。

 

 

 

常に不安だから努めて用心深くいることで安心を得たい僕は、今車の免許取得の中で堕落しています。それは高校から顕在化してきた不注意が加速してきたためです。

 

車好きな方には本当に悪いんですけど、本当に車というのは危ないです、僕には。

 

今の僕の精神構造というのは、車を自分で本当に運転したくないという所からスタートしています。僕には免許が身分証としての価値以上に見いだせるものが無いから、身分証なら他にも代わりになるものがあるから、免許なんて本当は無くてもいいやというふうになっているんだろうなと思います。

 

冷静になればこんな気持ちで免許取れるわけないですよね、笑えるといえば笑えるんですが、やはり辛いです。

 

 

 

「僕は、僕が生きる上での最大の目的というのは、僕が生きているということで生じる様々な杞憂から来る不安を払拭し、ただ生きることに納得できるような理由を見つけて、ただただ安心したいだけなんだけどなぁ」と、毎夜毎夜布団の中で考えている。そんな日々を昔送っていたんですが、また、そんなくらい日々に戻りそうです。

この二週間ほどのこと。

最近はすっかり更新しなくなりましたが、しぶとく生きてます。

しかし、気分はあまりよくないという具合です。というのも、最近生活がうまくいっていないからです。

 

 

帰省しているのですが、目的は両親と進路の相談をすること、歯の治療をすること、車の運転免許取得です。進路と歯医者は何とかこなしたものの、免許取得の進捗があまりに思わしくない結果になりつつあります。

 

元々、どこかの場所に決まった時間に毎日通うというのが「死ぬほどキライ」だったのですが、小中高と義務教育やその他外的な強制力のおかげでなんとか無理やり物理的に学校へ体を運んでいました。心は完全にどこか遠くだったように思います…(;´・ω・)

 

そんな人間が大学に入ると外的な強制力もない自由な生活に溺れるのは言うまでもなく、結局は以前の記事にも書いたように1年半の留年をしてしまいました。

 

 

大学生活は怠惰を極めてしまったといってもいいくらいだったので、甘えの要素も十二分に認められますし、怒られても仕方ないなともある程度は思えました。しかし今の状況は単にそれだけで語れないのかなと思います。

 

現状、車の免許が取得できず帰ることができないという中で「何とか免許取って帰りたい」と思っているにもかかわらず、車の免許を取りに行くための通学が辛すぎて、家から出たくないんです。

靴を履いて玄関を出ようとしたら心拍数が急に上がってしんどくなったりするし、吐き気が出てきて嘔吐してしまい、結局辛くなって動けずに1日を無駄にしてしまったり…と気分は急激に落ち込むばかりです。

 

MT仮免の学科はなんとかパスしたものの、技能がからっきしダメです。いつもと違うコースを走るだけでも緊張するのに試験官が難しいところを運転している最中に指示を出すのでよく聞き取れず聞き返すことはしょっちゅうで、先日落ちた時は「そもそも支持が聞こえてなかった」という練習とかそれ以前の問題でした。

おかげで踏切停止の指示が全く聞こえず一発中止でした。帰り道に、ハタチになって初めて歩きながら泣いてしまいました。辛いです。

 

 

僕は不器用なのですが、それでもそのカバーをするために練習してみたり、煮え切らない心をフルスロットルにしてある程度の頻度で教習に通ってなんとか3か月かけてここまで来ました。しかし、ここまで人と同じようにできないということを思い知らされた今、自分なりの工夫が通用してこないことにいら立ち無く、無力感だけが積み重なってくるような気分です。

 

 

とても暗いコトばかりでスミマセン、しかし自分の現状の辛さを何かしら書いて発散できればと思って書いています。

 

 

さて、こうした辛いことにはある程度昔から心当たりがありまして、あまり考えないようにしていましたがネットである程度心の病について調べていました。すると、どうやらADHDではないのか、というかねてからの疑問が割と形を成してきました。

 

 

不注意や多動性、衝動性といったものはすべて運転中の動作で当てはまってしまいます。

 

(不注意)

・教官の指示聞き漏らし

・標識の見落とし

・運転操作の手順間違い、やり忘れ

・直線でもキープレフトが維持できずふらつく

 

(多動性)

クラッチを踏んでいないときの貧乏ゆすり

・停車中のブレーキを踏む右足で貧乏ゆすり→動く

・安全確認が不安で2,3回やったりひどいと5回やる

 

(衝動性)これは主に生活の中が多いけど

・衝動買いが抑えられない

・試験官の指示が聞こえなかったことに抗議しかけたけどイライラしつつ我慢

 

 

とまあ、おそらく数えだしたらキリがないくらいまだまだありますが主にこういった具合でした。

ネットで多少かじった程度の知識で書いているので、もしかしたら厳密にはADHDと関係なかったりすることもあるかもしれません、ネット情報を踏まえた私見です。

 

 

僕は精神科って高校のころに1度行って、軽いウツか何かと診断されて2週間学校を休んだくらいでしたが、また行くことになるのかなと、少し不安です。

 

調べている中で分かりましたが、成人のADHDの診断をされているお医者さんというのはとても少ないそうですね、ですから普通の精神科に行ってももしかしたら意味がないのかもしれないし、かといってそのままにしていて疑問を抱えながらこの先何十年も生きていくというのはあまりにも辛すぎる。なので、そう遠くないうちに精神科へ通うことになるかと思います。

 

 

一般的な健常者からのイメージですが、心の病というのは甘えだったり、だらしないだけなんだという考え方があると思います。僕だって自分の大学生活は甘えによる結果だと認めざるを得ないなと思えるくらいには、ある意味よくある考え方なのだと思います。

 

しかし、今こんなに苦しい思いをしてしまっているのも甘えなのだとしたら、「甘えずにこんなにも辛い道をみんな走り抜けていったのか?!?!?!」と思わずにはいられないのです。周りの人たちが急にすごく強いっていうか、優れた人間に思えてくるんです。劣等感が尋常ではないんです。

 

だから、「早くラクになりたい」と切に願います。そのために僕は、ブログの最初の記事で書いたように「納得したいだけだ!」と言いたいのです。

 

僕がADHDなのか、はたまたアスペルガーなのか、うつなのか強迫障害なのか、つまり僕が心の病なのか。それとも、ただちょっとした不幸なことが重なって心が少し折れただけでそんなにたいしたことはないのか。それが知りたいだけなんですよ。

 

心の病なんだったら「ああ、病気だったんだ。この辛さは病気によるものなんだ、なるほどね」と納得できるだろう。

それに、たいしたことのない甘えだったとして「そうか、病気じゃないならまだ深刻ではないのかもしれないし、ちょっとポジティブになれた、よかった。その原因を取り除いてやればかなり良くなるだろう」といえるだろうし、納得するんです。

 

 

そのうち、精神科で診てもらいます。ADHDだったら、「新しい自分になった」くらいの感じで明るく新しい自分を迎え入れてあげたいと思います。

ずっと付き合っていきたい音楽を考える。

少し間が空きましたが、僕は元気です。

そしてたまにはタイトル通りの記事にしてみようかなと。笑

 

 

 

大学で軽音楽部に入っていたんですけど、その前から音楽は好きだったし、今までいろんな曲を積極的に聴く姿勢で生きてきたんですが、最近は「これはジジイになっても聴くんだろうな」という曲の感じが分かってきたというか。

 

僕はギター弾くしバンドも死ぬまでやろうと思ってるけど、流石に60歳になってもメタルとかハードコアをやり続けるつもりはないんですよね。

多分その頃には体力的にも聴覚的にもしんどいと思うから、年相応というかずっと続けていける自分の好きな、穏やかな音楽を探そうとここ数年は思っていました。

 

 

自分の好きな音楽のルーツとか色んなものを漁っていく中で最終的にはスウェディッシュポップとか、日本でいえば渋谷系と言われるあたりに落ち着きました。

あと「これはグッドなメロディーだな!!」と思う落ち着いた曲は大抵好きなんだなと思います。笑

 

 

スウェディッシュポップで有名なのってThe Cardigans、CloudberryJamかな。2組ともバンドですね。

 

邦楽だと土岐麻子がいたCymbalsがとりあえず好き。それと土岐麻子周辺の人もやっぱり好きで、Cymbalsサポートギターの奥田健介さんのNonaReeves、元Cymbalsの沖井礼二さんがやってるTweedeesもかなり沖井節っていうか、気にいってる。あとはSwingingPopsicleも大好き。

 

 

そしてここ数年最も好きなのが空気公団

 

音楽で人が好きだと思う部分、こだわる部分というのが色々あると思いますが、音楽を聴く側としても演奏する側としても僕が1番大切にしたいのがメロディーなんです。

リズムやハーモニー(和音)ってある程度形や順番とかルールが決まってて、簡単な型にはめてやればすぐサマになると思うんですけど、メロディーだけは最後は作る人の感性や個性で綺麗に色付けされるんじゃないかなって思ってて。

 

空気公団で歌われるメロディには「頬を撫でる風の優しさ」「滑らかさ」「懐かしさ」「早朝の爽やかさ」とか、たくさんイメージが湧いてくるような魅力があります。そしてもちろんボーカルを担当されている山崎ゆかりさんの歌。これもイメージに花を添える、落ち着いていて温もりのある声音や表情の付け方です。

 

僕は空気公団を死ぬまで聞き続けるだろうし、バンドをやるならオリジナルで、空気公団みたいな優しいグッドメロディーのあるバンドがやりたいなあ、と強く思うようになりました。

 

まだ二十代半ばで、激しいロックやメタルやらもできるしテクノとかトランスだってやろうと思えばやれるんだけど、そうしたいろんな幅の中で一生続けていきたい音楽をこの年で見つけられたのはすごくありがたい事だなって思います。

 

以前ビートルズが僕の音楽のルーツだと書いたのだけど、やっぱり僕は日本語が好きなのかもしれない。

 

日本語の繊細さを音楽で表現したいなぁ。

 

ビー玉くらいの岩塩を舐め続けたら。

おはようございます。

 

今日も穏やかな朝を迎えています。音がしないというのは自分にとって心を落ち着けるための大切な条件だなあ、と感じます。

 

いつもこの位ゆったりとした暮らしが出来ればと思うのですが、忙しい時間があってこの時間の貴さを知るわけですから忙しさも必要ということなのでしょうね。

 

 

昨日の話をまた考えたいと思います。今日はもっともっと、長そうです…。笑

 

忙しさが必要と書いた直後に非常にアレですが、やはり僕は「忙しいのは嫌い」です。本音としては否定できません。デキる人は忙しいのを楽しむんだとかよく聞いたりしますけど僕は「すげえなあ」としか思いません。あまりに考え方の違いや距離感がありすぎて。

 

僕は怠惰なので忙しく動き回るのが嫌いなのですが、もっと嫌なことはケアレスミスが爆発的に増えるからなんですね。

 

忙しい時って少し立ち止まって考えようとすると、次から次にデッドラインが押し寄せてきて予定がメチャメチャになる。焦って早く処理しようとしたらミスが増えまくり、やり直してたらもっと時間がかかる。ありがちな負のスパイラルです。

 

また、僕は極度のあがり症でもあります。病院に行ったことがないので実際どうか分かりませんが、もしかしたらアスペルガーか、はたまたADHDか、そういう病気だったりするかもしれません。

 

特にADHDの方の症状なんかを見てると怠惰な自分の姿と重なる部分がとても多く、ホントにADHDなのでは?と思わずにはいられないです。怖いことです。

 

 

とまあ少し話はそれましたが、元来、怠惰性と極度のあがり症を持つ僕が多忙な日々を送るのがいかに「苦痛なのか」ということが問題です。

自分の内面を変えることが理想ですし最終的には目指すところですが、失敗をあまりに恐れたり少しミスすると正気を失ってしまいミスが出る自分にはハードすぎるかなと思います。

 

なにかに取り組む際に「失敗を恐れるな」とか「やればできる」とか「途中で諦めるな」という励ましの言葉を頂くことがあります。言った本人は応援するつもりで言ってくれるのでしょうが、僕にしてみれば脅し文句のようなものでして、

 

「失敗を恐れるな」→「いちいちビビってる暇なんてないからさっさとやれ」

「やればできる」→「こんな簡単なことなのになんでお前はできないんだ」

「途中で諦めるな」→「終わるまで途中で投げ出すことは許さん」

 

 

というふうに(僕が望むわけでもなく無意識に)受け取ってしまいます。不器用とかそういう領域ではなく思い込みが激しいのかも知れませんが、今までの人生であったことを経て来て、僕はこうなってしまいます。

 

こうした現状を僕はなんとか変えていきたいとは思うのですが、自分を鍛え上げるような過酷な環境に「エイヤッ」と飛び込んでゆく勇気はもちろんありません。心が死んでしまいます。

 

だからでしょうか、とりあえず「自分が今出来ることを確認しよう」と思いました。不安で仕方ない、今の自分でも確実にできそうなことは何か?と確かめたくなった。

それがまず出来ると分かれば、そのことで自分を少し肯定できるなと思ったわけです。

 

 

怠惰な僕がほぼ毎朝早い時間にブログの更新が出来ている。

怠惰な僕が早寝早起きに成功している。

 

これは、実は僕としては「かなりスゲーこと」だと思っています。かなり成長したな〜って思ってます。毎日規則正しく、同じことをするって大嫌いだった自分がそんなことできてるなんて、冷静に考えたら大事件です。

 

「自分でも確実に出来ること」をやって成功する。長い時間と回数を重ねて、なんとか自分に自信をつけてきたわけですね。

 

例えば、「今日は外に出て太陽の光を浴びるぞ」とか、1日に1つのそんな目標でいいと思います。太陽の光を浴びることでセロトニンの分泌が増えて眠気を解消できますしね。

 

なにか目的があって、そのために一つだけ出来ることを何も考えずにやる。とても美しいことだと、素晴らしいことだと思います。

普通の人からしたら「だらしない」とか「他にやることはないのか」とバカにされそうな些細なことなんです、それは分かります。

 

でも、当人にとってはこの「自分の意思で決定した行動を履行する」という行為がとてつもなく難しいことだと思うんです。本当に。マジです。

 

僕はこの取り組みの最初の日に「今日は外に出る」という目標を設定して、達成できたのが夕方の日が沈む前でした。ギリギリでクリアなのか?というよくわからない感じでしたがとりあえず良しとしました。

 

それからも「今日は6枚切りのパンを焼く」とか「晩飯だけは自炊でカレーを作る」「起きたら布団は半分に畳む」「昼間に換気する」とか、些細なことを1日に1つ、出来るなら何個でもこなしてみました。

 

「何も出来ないどうしようもない自分」にとって、そういう些細なことでも達成できたらとても嬉しいもので、少しずつ日常にハリが出てきましたね。

 

ハリが出てくると何かしら楽しい気分になります。楽しい気分になると、「何かやってみようかな」という元気が湧いてきます。

 

そうすると、「新しいこと」に取り組む意欲が出てくるわけです。もちろん取り組んだら失敗することも沢山ですが、楽しさをもってやってみると意外と心は折れないものでした。

 

興味を持って新しいことにチャレンジするということは、恐らくそのことに興味があって、好きでやるんだと思います。なので心が多少折れにくいのかなとも思います。

 

新しいことにも少しずつ触れていって、自分が成長するのを実感していくことで僕は自分が嫌いで仕方ないという状態からは脱することが出来ました。そして、自分を少し信じられるようになりました。

 

 

今では毎日、早寝早起きを繰り返して早朝から運動したりブログを更新したり出来ています。前述の通り、かなりスゲーことだと思います、大事なことなので二回言いました。笑

 

それも全部「出来ることからひたすらやってみた」からなんですね。文字で見るとただの体育会系みたいにも見えるんですけど、色んなことを経て振り返ってみたら結果論としてそうなった、という感覚です。

 

「なんでもいいから、出来ることから始めよ」という陳腐な言葉。大切なことだと今こそ理解できますし賛同もしますが、当初の僕からしたら「うっさいボケ」となること間違いなしなので、言い方を変えたいと思います。

 

「とりあえず自分が何かやってみようと思ったらやってみて。それまでぼーっとしてたらいいし。それと、何かやろうとしてやりづらいなとか、邪魔になる物事があればそれは排除しちゃって。自分がやりたいことをやりやすくなるようにゆっくり時間をかけて、周りの環境を整えてやればいいんだ」ということです。長ったらしいかな。笑

 

僕と同じような人は、最初の1歩はこれでいいと思うんですよね。

 

僕は最初、今日は外に出るという目標を設定しましたが、この時はお金を財布に入れてました。お金を入れておけば外に行って遊んだり美味しいもの食べたり出来るから外に行きたくなるんです。

あとは出かける時の服にとりあえず着替える、バッグやリュックを持ってとりあえず立ち上がるとか。

それか外出する時間をこの際決めなくていいとも思います。昼間、人のいるところに出るのが嫌で外に出るのが嫌だったら真夜中でもいいと思います。真夜中に最寄りのコンビニで何か買って帰るだけとか。

「あ、今日はジャンプの発売日だから読んでから買い物しよ」とか「今日は金無いし本読むだけにしとこ(もちろん立ち読み禁止のお店もありますので注意)」とかでもいいんじゃないかなと。

 

そうやって少しずつ「外出する方向に心と体をもっていく」ことにしました。そうしたらなんとか外には出れました。

 

自分が何かをやるために、そうしやすい環境を作ったり、自分の「やってみよう」という意志の力、ベクトルをなるべく弱めないように細心の注意を払ってあげる。これをすることで本当に僕は今変わってきています。

 

 

もし僕みたいに、望まない怠惰性やあがり症に悩み苦しんでいる人がこのブログを見ていたとしたら、少しでも参考になればと思います。

「僕はこうやってみたよ、そしたらこんな感じだったけどまあ悪くないですよ」って感じのブログなので、気楽に見てほしいと思います。というかほぼ日記兼雑記なんですけどね。

 

すごーく長くなったんですけど、今日はこんな感じです。

 

 

 

あと少し気になってきたんですけど、記事のタイトルなんですけどホントに適当というか、書き終えた時に浮かんだ言葉そのまま書いてて記事の内容と1ミリも関係ないことがほとんどなんですが、果たしていいのかな😅 

 

今日の内容だったら「僕が自分の望まない怠惰と向き合ってきた方法」とか、他にもっと真面目な、内容に合わせたタイトルってあるとは思うんですけど、見て下さっている方がどう思われているのかな?とふと考えます。

 

実は、最近になってアクセスカウンター?があるのにやっと気付きまして。

 

見てたらとてもありがたいことに、こんな稚拙なブログにも少しずつアクセスが増えてきているようでした。見て下さっている方、本当にありがとうございます。

 

興味のある方は、記事のタイトルのことや「お前ここ誤字ってるやんけ」とか「好きなロックバンドは何ですか?」とか「最近何回くらいお肉食べました?」とかどうでもいいことでも何でも結構です。コメントなど頂けるととっても僕が喜び、踊り出したり反省したり悟りをひらきかけたりするので、よければお願いします。

 

長々とありがとうございました。

何かを深く考えすぎると球体になって死ぬ。

おはようございます、今日は少し遅くなりました。

 

朝からバタバタしていたらついこんな時間になりました。忙しいのは苦手です。笑

 

早起きを始めた。そのきっかけというのも色々あるんですけど、一つは早寝早起という健康上の目的としてのこと。

 

 

そしてもう一つは、これは健康という目的から派生してきたのですが、自分の活動時間を増やして余裕を持つことでゆっくり確実にタスクをこなすため、というのも大きな目的です。

 大学留年などしていた訳ですが、その頃の生活をざっくり言ってしまえば

 

 

夜更しが日常化

睡眠時間の確保が困難

常時眠気に襲われる

夜には活性化してまた夜更し

 

 

という、よくありがちな負のスパイラルに陥ってしまっていたわけです。自分でも、ドップリと嵌ってしまっていたので「どうしたものか?」と考え込んでいました。

怠惰な自分が悪いのは紛れもない事実。自分を変えなきゃいけない。でも、そんなに息苦しく目まぐるしい生活なんていやだなぁ。なんて思っていたのです、お恥ずかしいですけど。

 

色々と自分なりに考えた結果、高校生の頃の生活を思い出して応用することに。高校の頃は実は早寝早起きで生活していたんです。

 

 

大学受験における重要な試験といえば(当たり前ながら)センター試験や大学の二次試験ですが、その試験の開始というのは午前中が大半だと思います。

 

たとえ午後から試験開始だったとしても、朝起床するのは自宅の寝床の上ですし、そこから10分後、1時間後に試験を受けるわけにもいきません。頭が寝ぼけて働いてくれませんから。

 

朝食をとって試験会場に念のため前乗りすることはもちろん、脳が良好なパフォーマンスを発揮するためには起床してからある程度の時間が経過していないといけないのです。

 

昔本で読んだ程度の知識で恐縮なのですが、脳の回転が良くなるのは確か起床後3時間ほどだったと思います。(フワフワですみません…)

 

つまり、朝は遅くとも試験の開始三時間前には起きていないと良くないということ。

もし日頃から受験勉強で夜更しをして頑張っていたとしたら、努力の量に対してコストパフォーマンスが著しくなる恐れがあるのですからこれは受験生にとっては大問題です。

 

そこで僕は睡眠をまず最優先にして、起きてから朝登校するまでを課題の消化や自己学習にあてていました。誰にでもお勧めできるかは分かりませんが、自分には合っていましたね。自分でも納得して取り組めていましたし。

 

睡眠をキッチリ取れていることで

・心身ともにスッキリ爽快

・残りの時間、課題にスムーズに取り組める

・余った時間は趣味などに充てられる

 

ということで大変有難かった

です。高校生は部活動もありますから体力をいかに勉強のために確保できるかも重要だと思います。

 

僕の高校では「四当五落(しとうごらく)」などという言葉を話した先生もいました。これは「四時間睡眠で勉強すれば大学には受かるけど、五時間睡眠だと寝すぎだから勉強が足りなくて落ちるぞ」という意味です。

 

いわゆる精神論なのですが、僕はこういうの大嫌いで… 1ミリも納得出来ないんですね。その位の気合を入れて勉強に臨みなさいというのは分かりますしそうすべきだと思います。

 

でも、実際に四時間睡眠で勉強したら寝不足になって授業寝てしまいますし学校行く意味が薄くなりますよね。当時の僕はそうでしたし今の僕もそう思っています。

 

 

大切なことは、朝の試験時間に合わせて脳を活性化させることと睡眠時間の確保を両立させること。この2つなんです。だからこの二つが優先順位の高いところにあったと。

 

となれば早寝早起きをするしかありませんでした。そして、これが今の自分にも当てはまることなんだと感じました。

 

早寝早起きに変えてから、一日の予定がうまく運ぶようになった気がします。

 

早朝は静かです。起床後は程良く空腹感もあり、食後のような眠気もないので個人的には集中しやすい状態を作りやすいのです。だからこの時にブログも運動も日々の趣味や学習もこなして、他には興味があることについて調べたりしています。

 

朝食までにやることが上手く結構片付いてくれるので、その後一日の予定も余裕を持ってこなせますから消化率もいいですし、概ねいい1日を過ごすことができます。

 

時には多少、イレギュラーが発生することもありますが、もともと余裕があるので十分に対応できます。その後で本来の予定をこなせばうまく収まりやすいですね。

 

 

 

結局、こうやって「気付き」が原点にあって、そこから「それじゃどーしよ?」という悩みを経て「自分に合ったやり方はコレ!」という「カタチ」を作り上げていくことでなんとかやって行けるんじゃないかなって思います。

 

結局は自分で疑問(なぜ?)をもって、トライアンドエラー(どうしたらいい?)を繰り返してみて、やり方(こうすればいい)を見つけることなのかなって思います。

 

僕はブログのタイトルにも緩とか使うくらい本当に怠惰な性格で、自分でやろう(やらなきゃ)と決めたことも上手くできないし、少し予定が狂うとすぐに心が折れちゃって何もやる気が起きなくなる情けない人間なのですが、やはり現状を良くは思っていないんですね。

 

でも「怠惰な自分を変えたい!」「スマートで効率的なタスク処理のノウハウを身につけ〜」とかそういうレベルの高いことは敷居が高いのでやる気が全然起きません。ほんとに。

 

なので、細かいところ、小さくて軽くできそうなところから少しずつ攻略するのが自分には向いていると思います。ここら辺のことは近いうちに書くことにします。

 

 

 

今日は思いの丈がアレして、ちょっと長くなった…。 

二度寝から帰ってこなかった人達。

おはようございます。

 

今朝はLSDの日でした。ただ、いつも着ているジャージを洗濯してしまっていたのでなるべく動きやすい普段着で走ってきました。

 

さすがに運動用の服かそうでないかの差は大きかったですね。軽めで柔らかめの服を選んだつもりでしたがストレッチがなかったり、走っていて地面を蹴る時に服自体の重さ書きになったりと、普段のように走りに集中する感覚は味わいにくかったなと。

 

それ以外は概ね良かったかな? 走るペースも落ちてたわけじゃなかったし、止まらずに走れたので良し。

 

 

朝にジョギングなりウォーキングなりされている方は僕の他にもやはりいて、すれ違いざまに「おはようございます」と挨拶してくださるのですが、僕はコミュ障なのですれ違いきったあとに慌てて「おふ、おはよござあっ」位しか言えなくて少し申し訳ない気分になります。笑

 

走ってる時で、呼吸を整えるので必死なのもある(だとしたらLSD的に間違ってる)んだけど、なんとなく緊張してしまいます。もちろん礼儀なのでしっかりと挨拶を返すのですがなかなか慣れません。

 

以前書いたこともありますが、恐らく自分のような肥満体系の人間が走ってることに自分自身が少し劣等感を伴った状態で行っているからなのかなと思います。結局自分に自信が持てないという。

 

自分としては「緩く繰り返す」ことで自分を少しずつよりよいスタイルで暮らしていくことをモットーにしているので、時間を掛けて少しずつ痩せるしかないなと思います。

 

臥薪嘗胆、という程ネガティブなイメージもないですが、雌伏の時くらいのイメージですかね笑 時間を掛けなければならないので根気よく続けていくし、続けていくためにどう工夫すればいいのか(楽にすればいいか、手を抜けばいいか)、落ち着いて考えていきたいですね。